巷の哲学について

 「哲学は何の役に立つのか」「哲学はなんのためにあるのか」という問いがしばしば発せられ,それについては無数の回答が存在する.本稿においては,友人が納得いかないという「その問いは哲学から生まれる」という回答の問題点を挙げ,哲学とはどんな立ち位置にあるのかについて述べてみたい.ところで,できるだけ中性的に公平に書いたもののこれは私個人のごく狭く,あるいは偏った意見であるおそれがあることをここに明示しておく.

 まず,その友人は

 「人がある態度を採ったり,価値判断を行う際には哲学は不要で,金を儲けて生きる上でプラグマティズムは必要ないと言われて自分もそう思う.なので哲学は何処か胡散臭いと思う」

 ということを私に相談してきた*1

 正直,価値判断を行う上で哲学は必要ではないし,態度を採るためにも必要はない.むしろ,態度を採るというよりも,なぜその態度を採るのかを正当化しなければならないときには,昔から哲学と緊密であった神学論争などを見てわかる通り,哲学の分析的な議論方法の集積などは活かせるだろう.古い時代には詩人の軽視*2が行われたり,あるいは歴史の蔑視*3があった.つまり,これは確かに哲学による価値判断であるが,過去には哲学に限らず学問は上下を付けられる傾向があり,その争いの歴史は長い.有名なものとしては絵画ー文学,あるいは絵画ー彫刻のどちらか一方の優越性をめぐるパラゴーネ論争*4がある.この例を見ても,哲学と価値判断は独立に存在するし,そもそも対象によっては所与から理性を経ず直接的に価値判断を下すのであるから,哲学が価値判断の必要条件ではないことはもはや自明と言っていいはずである.

 価値判断を,何か価値のようなものを定義するということにしても,そのような定義を作ることは難しいし,造語こそ多かれど哲学においてその文脈を大きく超えて語の使用を制限するようなことは積極的に行われなかった.*5簡単な例を挙げても,K.Jaspersの実存とM.Heideggerの実存は同じ語でも意味が全く異なる.このことからも,そもそも哲学という括りの中で何かの定義を誰かが一意に定めることが実現されていないので,どうして物事の価値を哲学の言葉を用いて定義付けできるのか分からない.

 プラグマティズムに関しては,合理的に生きる上では学ぶと有益に見えるものではあるものの,その有益さや方法論などの理論化がまた有益とは限らない.仮に,”有益である”ということをリンゴを摘むことではないとすれば,プラグマティズムは物事が有益である,あるいは真理であり,生活の負担を軽減するというような事態を示す上で有益であると言える.ところがリンゴを摘みたい者にとっては有益ではない.これもまた,ある意味当然である.

 哲学的論理(という言葉を彼は使った)というものは存在し得るだろうか.(存在するとはなんだろうか?という問いの事をそう形容しているのであればそうかもしれない.)ここで,“論理”を前提の正しさに関わらない形式論理であるとすれば,哲学は前提の正しさに関わる操作であると言えるから*6,哲学的な論理というのはどうも形容矛盾か,あるいは相互補完だろう.

 論理と言う言葉を避けて,哲学は「問いを立てて答えを出す」という循環的な過程であると表現してみると,あながち間違いではない.それでは,「なんの役に立つの」「なんのためにあるの」というのはどうしてそこから不適切な問いとして外されるのかが問題になる.それは,何のために,役に立つという価値判断は時代によっても視点によってもコロコロとかわり,それは愛とは何かとか何のために生きているのかなどの無限後退に陥る*7間違った問いを取り扱って答えを出すことが出来ないからである.

 以上を要約したものを送ってとりあえずは納得した様子であるが,これからもたびたびこのような問いに晒されるのだろうか.これは何かしらの回答になりえているのだろうか.

 自分の何かを失いかけている最近に起きた出来事の中でも,かなり虚しさを感じるやりとりであった.

*1:相談とは思えない物言いだが,彼はそういう人だ.

*2:Platoによる詩人追放論

*3:Aristoteleによる詩学

*4:パラゴーネと言えば絵画彫刻であるが,あらゆる比較論争はパラゴーネと呼んで差し支えない

*5:その結果,”濫用”などが起こってしまったのだが.

*6:なんと,私はここで図らずも哲学することをなにがしかの操作だと考えていることが浮き彫りになった

*7:あるいは答えの出ない.愛しい感情など所与によるもので言語化できないことについて明晰に思考することは出来ないから,この場合はいかにしてこの所与は発生するのか,どのようにして言語化できないことを言語化するのか という問いが適切である.ある問題が含む別の問題を見つけたり解決したりせずに考え続けることは確かにされてきたが,そればかりでは哲学はこのように変化していないだろう.また,無限後退を避ける歴史はAristoteleのオルガノンに始まる