Gameboy, わたしの手

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 かつてGameboyをもてばそれでいっぱいいっぱいだった小さな手は、もうオクターブを越えられるほどに大きくなった。

 ようやく、大人になるということがどういうことかわかってきたような気がする。それは、「わたしが思ってたアレはソレじゃなかった」の積み重ねで見えてきたものだ。自分自身を見つめることで発見したこともあれば、他人(しかし、近しい人)の振る舞いから学んだこともある。その一部、それも、とうの昔に見つけて今でもそうだろうな、と思っていることをいくつか書こう。まず、誰の要求にでも応えて、無私・自己犠牲をすることは“優しさ“じゃなかった。誰にでも攻撃的、批判的で、何にも染まらない覚悟を常に振り回すのは“強さ“じゃなかった。自己批判をせずに自分の信じることを相手に押し付けることは“正義“じゃなかった。「死にたい」というときにその感情をぶつけるさきがあることは“絶望“じゃなかった。不幸だけで全てが終わるかどうかを決めるのは“環境“じゃなかった。自分が合わないと思った一般的な手法に従わないことは“あきらめ“じゃなかった。幸せの淵源は“恋愛“じゃなかった。休むことは“弱さ“じゃなかった。一瞬の気の迷いは“一瞬“のものじゃなかった・・・。書こうとおもえばいくらでも書けるけど、それは本題じゃない。“大人になる“を、似非問題だとしてのけるのは簡単だし、実際わたしもそうしてきた。でも、似非問題とみなしたうえで、「何が私たちを子供・大人だと思わせているのか?」とあえて問題を引き受けるのは難しい。ここで、『<子供>の誕生』という有名な本について語る気はさらさらない。ここでは、そうしたものを踏まえないで、厳密な議論をせず、すごく個人的な人生の直感の表明をするに過ぎない。

 “大人になる“のはすごく大変な道のりだった。今、わたしはわたしに、“大人になった“という直感がある。この直感を解剖しようとすると、まるで掴んだ砂が指の間からこぼれ落ちていくように何もわからなくなってしまって、考えるのがとても大変だった。例えばそれは、「めんどくさいことでも仕方ないと思ってやるようになった」とか、「嫌いな職場の人間とも表面上はうまくやれる」とか、「経済的に自立した」とか、そういうものでは全くなかった。では、この“大人になった“という感覚は、一体何なのか?その答えは、少なくとも「自分は大人になったかな」とか、「大人って何だろう」という疑問に対する答えとして出てきたものではなかった。あくまで暫定的なものだけど、答えは、「“自分“って何なの?」という、25歳のわたしが20年来抱えて気が向いたら考えてきた問いかけがもたらしてくれた。

 少なくともわたしにとって“大人になった“とは、「わたしが、わたしという人間個体が、一定の期間生きてきたという歴史性を認識した」ことだ。これを読んでいるあなたにとってこの事実は、とてもちっぽけで、とるに足らないことかもしれない。でも、わたしにとっては重大な認識だった。それを端的に示すのが、この記事の最初の一文だ。私たちは、まだ身体が菓子箱にはいるくらい小さい頃から今現在に至るまで常に“今“を生きている。そのことに無批判に生きていると、気がついたら過去を振り返る機会は全く無くなって、「自分が今に至るまでの経緯」を全く失ってしまう。少なくともわたしは、虐待されていたし、人生において思い出したくないこと、つまり、人生から切り離して捨ててしまいたいことがたくさんあっただけに、長い間自分が今に至るまでの経緯のことなど捨て去っていた。何より、わたしは今もそうだけど、今を生きるのに精一杯すぎた。こういうと大袈裟に聞こえるかもしれないけれど、“わたしたちは、常に過去のわたしたちと向き合いながら生きている“んだ。その気がなくとも、今の“わたし“が抱える問題の本当に多くは、過去の“わたし“がその問題を解決する鍵を握っている。話が逸れてしまったけど、例えば“わたし“が誰から生まれてきたのか、どういう生活をしていたのか、どういう文化に触れ合ってきて、それは今どうなっているのか。できれば、それを追体験できるものがあるといい、昔住んでいた家、遊んでいたゲーム、かおり、気温・・・。大事なのは、今の“わたし“が、できるだけ“わたし“の過去の多くに触れること。今の“わたし“が、過去の“わたし“と違うこと、同じことを認識できるといい。“自分“というのは、全て完全に固定された、不変的なものじゃない。変わってきたもの、変わってこなかったものもあるはず。自分が今までの人生において、どう生きてきたのか、そのとき、どう考えていたのか、何に触れていたのか、そして、これから“わたし”はどう生きるのか。

 “わたし“が、短いながらも歴史を持つ存在であることを理解すること、辛い過去も含め、過去を否定も過渡な肯定もせずに受容し、これからを生きること。それが、わたしにとって、“大人になる“ということだったんだ。