天才

 忘れぬうちにまとめるメモ書きで,極めて個人的なものである.

 

 自身の持つ”天才コンプレックス”が私の心の師Leonard da Vinciから来ていることは間違いない.その時に持っていた力への意志は,全知全能,手の器用さ,頭の良さなど,どのようなことについても完璧を目指し,さらにその中でも興味のあることについて秀で,他者つまり自分以外の全ての人間に貢献するような仕事を成し遂げることだった.

 それが最も強かった高校卒業前,物理,論理学,哲学,そして専攻だった機械に明け暮れた日々に,大きな挫折を味わい,高校卒業後は自身を不幸な,受難の天才であることを信じていた.

 実際,若かりし頃のメモを読めば現代哲学が対峙している問題に自らの足でたどり着き,それについてどのようなアプローチが可能なのかについての考察がなされていたり,後知恵としてその問いはナンセンスだと分かるものの,それがナンセンスとは気づいていなかった当時の私による言語の限界についてウルマン『意味論』やソシュールに基づいたまぁまぁ精緻な考察がなされていたりした.

 当時の私は確かに天才的に明敏で,炯眼の士だった.一日のほとんどを勉強と思索に費やし,その脳はさながら問題や発見の汲めども尽きぬ泉である.

 ところが,学問を修め始めてから体系を吸収するにしたがって,当然のことながら一般的に考え得ることの体系,つまり,論理的飛躍の許されない体系も身に染み込ませてしまったことから,”情報の少ない状態ゆえに起こさざるを得ないアブダクション”が抑えられてしまったのである.これをもってして,私は自身は天才ではなくなったのではないかと心配し始めた.

 ここまでで,私のイメージする天才性の本質はアブダクションであり,つまり問題の”診断”と”発見”のプロセスであることが分かる.

 言い忘れていたが,Leonardo da Vinciの"能力"として解釈していた「万物への好奇心」は内面化できたから,私の課題は”興味のあることについて秀で,他者つまり自分以外の全ての人間に貢献するような仕事を成し遂げること”にシフトしている.

 過去の自分を振り返り,その明敏な問題提起が悔しく思えるのは,長い事学問を修めんとして勉学に熱中するあまり,自身が持っていたはずのアブダクションの能力がさび付いてしまうことへの惧れから来ているだろう.Leonardo da Vinciのいうように,頭と水は動かさないでおくと腐る.

 研究とは,言うまでもなく考察・問題設定,知識の研鑽の両輪であるはずである.*1どちらかだけでは何も進まない.どちらかが優位になる時期はあれど,また他方をまったく止めてはならない.

 過去を懐かしく思って,いくら問題設定が明敏であろうと,当時の私は知識の研鑽が足らなかったということを踏まえれば,知識を研鑽すればするほど,適切な問題設定がそもそも困難であるのではないかと考えることができ,つまり”天才性”が衰えたわけではないと解釈することも可能なのである.

 

 最後に,天才に嫉妬しなくなった現状.自身が天才だと確信しているのか*2,競争心がなくなっているのか.課題である.

*1:そして,哲学者を目指していた当時の私は,このような考察・問題設定のみで物事をやろうとしていた.

*2:そんなことはないはずだ