ネゴシエーション

 今日の江戸川は磯臭い。アフリカから拡散していった人類が,現在我々が呼ぶところの“日本“にたどりつき,2021年現在において新型コロナウイルスと闘いながら,そしてしばしば新型ウイルスをめぐって争いながら営みを続けている。人類は,“国家“という行政単位に基づいて隣人たちの異質と同質を判断する一面を持ちながら,普遍的な人間の権利を認めている。
 動物は,一定の生息範囲で数が増えすぎると生存競争が激しくなるため,一般にある程度の数まで増えると繁殖が抑制される。あるいは,草を食むことなどから生じる環境の変動によって土地を追い出されたり,それによって全滅したりする。人類はどうだろうか。人類はその生息範囲を地球全体にまで広げ,資本主義のシステムと科学技術の発達を伴って,過剰な環境への働きかけを可能にしている。環境への働きかけによって,食事をほぼ無制限なまでに生産することができ,エネルギーを変換して電気を用いることができる。しかし,分配の正義は達成されておらず,ほぼ無制限に食事が生産され,破棄される一方で飢えに苦しむ人もいれば,電気の恩恵に与れない人もいる。生産に対する人間の偏執的なこだわりによって,異常な量の生産物が生まれているが,同時に消費に対する人間の偏執は分配を抑制している。これはどれも,利益を増大させて損失を最小にするという目的に対しては合目的である。しかし,この合目的性は不合理であるのも確かだ。合目的であり不合理であるというのは形容矛盾のように思われるが,そうではない。
 短期的に利益を得ることを「合目的である」とする。そして,短期的に利益が抑制されても長期的に利益が増大する,ないし,抑制された利益が長期的に得られることを保証されること,さらに,倫理的問題を最小限にできることを「合理的である」としよう。合目的性には短期的な損得計算が必要であるのに対して,合理的であるためには長期的計画に伴う倫理的配慮が必要である。企業が倫理的配慮を実現するためには,短期的な合目的性を達成しながらも,合理的計画をたてなくてはならない。なぜならば,長期的に起こる問題は短期的には小さい問題が先鋭化した形で生じることが多いからである。つまり,計画を常に刷新し,目的を合理性の実現に与するように変化させなければならない。合目的性が利益の追求にかなうものである限りは,合理性はあり得ない。長期的に人類が滅亡するような合理性のようなは,実際の合理性ではない。
 この意味で,人間には合理性が備わっていない。合理的であることがどういうことかどうかは,それこそラプラスの悪魔しか知り得ない。人間は常に合理的であることのあり方について知識を変化させる。基礎付け主義的な知識が不可能な領域がある以上,人間が全てにおいて真に正しいものを前提としておいて議論することはできない。つまり,真の合理性は現時点のどの人間にも感知されていない。
 レトロダクションやヒューリスティックな判断は,それ自体合理的ではない。しかし,多くの判断は後々の努力によって,合理的(に見える体系による説明によって)に説明されうる。合理性というのは,常に我々の後ろを走るものであって,我々の道筋の全てをあらかじめ明確にするものではない。