Gameboy, わたしの手

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 かつてGameboyをもてばそれでいっぱいいっぱいだった小さな手は、もうオクターブを越えられるほどに大きくなった。

 ようやく、大人になるということがどういうことかわかってきたような気がする。それは、「わたしが思ってたアレはソレじゃなかった」の積み重ねで見えてきたものだ。自分自身を見つめることで発見したこともあれば、他人(しかし、近しい人)の振る舞いから学んだこともある。その一部、それも、とうの昔に見つけて今でもそうだろうな、と思っていることをいくつか書こう。まず、誰の要求にでも応えて、無私・自己犠牲をすることは“優しさ“じゃなかった。誰にでも攻撃的、批判的で、何にも染まらない覚悟を常に振り回すのは“強さ“じゃなかった。自己批判をせずに自分の信じることを相手に押し付けることは“正義“じゃなかった。「死にたい」というときにその感情をぶつけるさきがあることは“絶望“じゃなかった。不幸だけで全てが終わるかどうかを決めるのは“環境“じゃなかった。自分が合わないと思った一般的な手法に従わないことは“あきらめ“じゃなかった。幸せの淵源は“恋愛“じゃなかった。休むことは“弱さ“じゃなかった。一瞬の気の迷いは“一瞬“のものじゃなかった・・・。書こうとおもえばいくらでも書けるけど、それは本題じゃない。“大人になる“を、似非問題だとしてのけるのは簡単だし、実際わたしもそうしてきた。でも、似非問題とみなしたうえで、「何が私たちを子供・大人だと思わせているのか?」とあえて問題を引き受けるのは難しい。ここで、『<子供>の誕生』という有名な本について語る気はさらさらない。ここでは、そうしたものを踏まえないで、厳密な議論をせず、すごく個人的な人生の直感の表明をするに過ぎない。

 “大人になる“のはすごく大変な道のりだった。今、わたしはわたしに、“大人になった“という直感がある。この直感を解剖しようとすると、まるで掴んだ砂が指の間からこぼれ落ちていくように何もわからなくなってしまって、考えるのがとても大変だった。例えばそれは、「めんどくさいことでも仕方ないと思ってやるようになった」とか、「嫌いな職場の人間とも表面上はうまくやれる」とか、「経済的に自立した」とか、そういうものでは全くなかった。では、この“大人になった“という感覚は、一体何なのか?その答えは、少なくとも「自分は大人になったかな」とか、「大人って何だろう」という疑問に対する答えとして出てきたものではなかった。あくまで暫定的なものだけど、答えは、「“自分“って何なの?」という、25歳のわたしが20年来抱えて気が向いたら考えてきた問いかけがもたらしてくれた。

 少なくともわたしにとって“大人になった“とは、「わたしが、わたしという人間個体が、一定の期間生きてきたという歴史性を認識した」ことだ。これを読んでいるあなたにとってこの事実は、とてもちっぽけで、とるに足らないことかもしれない。でも、わたしにとっては重大な認識だった。それを端的に示すのが、この記事の最初の一文だ。私たちは、まだ身体が菓子箱にはいるくらい小さい頃から今現在に至るまで常に“今“を生きている。そのことに無批判に生きていると、気がついたら過去を振り返る機会は全く無くなって、「自分が今に至るまでの経緯」を全く失ってしまう。少なくともわたしは、虐待されていたし、人生において思い出したくないこと、つまり、人生から切り離して捨ててしまいたいことがたくさんあっただけに、長い間自分が今に至るまでの経緯のことなど捨て去っていた。何より、わたしは今もそうだけど、今を生きるのに精一杯すぎた。こういうと大袈裟に聞こえるかもしれないけれど、“わたしたちは、常に過去のわたしたちと向き合いながら生きている“んだ。その気がなくとも、今の“わたし“が抱える問題の本当に多くは、過去の“わたし“がその問題を解決する鍵を握っている。話が逸れてしまったけど、例えば“わたし“が誰から生まれてきたのか、どういう生活をしていたのか、どういう文化に触れ合ってきて、それは今どうなっているのか。できれば、それを追体験できるものがあるといい、昔住んでいた家、遊んでいたゲーム、かおり、気温・・・。大事なのは、今の“わたし“が、できるだけ“わたし“の過去の多くに触れること。今の“わたし“が、過去の“わたし“と違うこと、同じことを認識できるといい。“自分“というのは、全て完全に固定された、不変的なものじゃない。変わってきたもの、変わってこなかったものもあるはず。自分が今までの人生において、どう生きてきたのか、そのとき、どう考えていたのか、何に触れていたのか、そして、これから“わたし”はどう生きるのか。

 “わたし“が、短いながらも歴史を持つ存在であることを理解すること、辛い過去も含め、過去を否定も過渡な肯定もせずに受容し、これからを生きること。それが、わたしにとって、“大人になる“ということだったんだ。

懐かしさ

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 天気の悪い寒空の日曜日。私は起き抜けに着替えをして、コーヒーを飲むことも食事をすることもせず家から飛び出した。私の大好きな河に向かって。

 よく知っているはずの道も、数日家を出ない間にガラッと変わっていることがある。今日もそうだった。いつもと違うルートで歩いていると、新しく敷かれた側溝のそばに落ちる水糸や、「週休二日制を採用しています」という看板の向こうで日曜日なのに土留め工事を行う作業員の姿が見えた。私も現場仕事をしたことがあるから、休日出勤はともかくも水糸だけは蹴り丸めて道の端に追いやっておいた。  危険なのを知っているから。

 河が近づくと、枯れ草の香りにむせそうになる。懐かしい香り、いつの時代もきっと、枯れ草は同じ香りなんだろう。どこにも帰りたくないな。でもどこかに帰りたいな。都会にいても、必ず自然のある場所に向かってしまう。私は山が好きだ。なんなら、帰りたい場所に1番近いものは山かな、と思っているくらいに。

 一時期、東京も千葉も離れて静岡に暮らしていたことについてぼんやりと考える。はじめは良かった。その土地に住む女性と別れてからは、減っていく貯金、過ぎていく時間、基本的には苦しくて辛い時間でしか無かった。しかし、貯金を減らしながら全てを諦めて、日中から入る温泉は気持ちが良かった。静岡は温泉が安価で、どこにでもある。さらに、3方に山が見えるし、1方には海がある。海の気分だったら30分ほど歩けば駿河湾に着くし、山の気分だったら15分で山に着く*1。都会気分を味わいたければ徒歩30分で静岡駅だ。丸善ジュンク堂もあれば、さらに駅向こうに古本屋、駿府城公園。駿府城公園には全て諦めてからよく行った。ベンチで、R.Dedekind『数とはなにかそして何であるべきか』を読んでいた。正直、そのタイミングで大学に合格していなかったら自殺していたと思う。でもしなかった。あぁ。でも疲れたなあ。頑張るの。

 河に着いて、冷たいコンクリートに腰を下ろす。今日は水位が高いなあ。枯れ草の匂いはいつの間にかよく分からなくなった。そう、どれだけ懐かしく思っていたものも、実際にそこへ身を置くと懐かしさはどこかへ隠れてしまう。懐かしく思うということは、長らく不在だった何かを思い出すということなんだろう。それでは、枯れ草の匂いが呼び起こした色々な記憶や感情は、私にとって何の、そしてどんな不在だったんだろう。

*1:ただし、高さにこだわらないとする。高い山に行きたければ30分だ。

ネゴシエーション

 今日の江戸川は磯臭い。アフリカから拡散していった人類が,現在我々が呼ぶところの“日本“にたどりつき,2021年現在において新型コロナウイルスと闘いながら,そしてしばしば新型ウイルスをめぐって争いながら営みを続けている。人類は,“国家“という行政単位に基づいて隣人たちの異質と同質を判断する一面を持ちながら,普遍的な人間の権利を認めている。
 動物は,一定の生息範囲で数が増えすぎると生存競争が激しくなるため,一般にある程度の数まで増えると繁殖が抑制される。あるいは,草を食むことなどから生じる環境の変動によって土地を追い出されたり,それによって全滅したりする。人類はどうだろうか。人類はその生息範囲を地球全体にまで広げ,資本主義のシステムと科学技術の発達を伴って,過剰な環境への働きかけを可能にしている。環境への働きかけによって,食事をほぼ無制限なまでに生産することができ,エネルギーを変換して電気を用いることができる。しかし,分配の正義は達成されておらず,ほぼ無制限に食事が生産され,破棄される一方で飢えに苦しむ人もいれば,電気の恩恵に与れない人もいる。生産に対する人間の偏執的なこだわりによって,異常な量の生産物が生まれているが,同時に消費に対する人間の偏執は分配を抑制している。これはどれも,利益を増大させて損失を最小にするという目的に対しては合目的である。しかし,この合目的性は不合理であるのも確かだ。合目的であり不合理であるというのは形容矛盾のように思われるが,そうではない。
 短期的に利益を得ることを「合目的である」とする。そして,短期的に利益が抑制されても長期的に利益が増大する,ないし,抑制された利益が長期的に得られることを保証されること,さらに,倫理的問題を最小限にできることを「合理的である」としよう。合目的性には短期的な損得計算が必要であるのに対して,合理的であるためには長期的計画に伴う倫理的配慮が必要である。企業が倫理的配慮を実現するためには,短期的な合目的性を達成しながらも,合理的計画をたてなくてはならない。なぜならば,長期的に起こる問題は短期的には小さい問題が先鋭化した形で生じることが多いからである。つまり,計画を常に刷新し,目的を合理性の実現に与するように変化させなければならない。合目的性が利益の追求にかなうものである限りは,合理性はあり得ない。長期的に人類が滅亡するような合理性のようなは,実際の合理性ではない。
 この意味で,人間には合理性が備わっていない。合理的であることがどういうことかどうかは,それこそラプラスの悪魔しか知り得ない。人間は常に合理的であることのあり方について知識を変化させる。基礎付け主義的な知識が不可能な領域がある以上,人間が全てにおいて真に正しいものを前提としておいて議論することはできない。つまり,真の合理性は現時点のどの人間にも感知されていない。
 レトロダクションやヒューリスティックな判断は,それ自体合理的ではない。しかし,多くの判断は後々の努力によって,合理的(に見える体系による説明によって)に説明されうる。合理性というのは,常に我々の後ろを走るものであって,我々の道筋の全てをあらかじめ明確にするものではない。

 

怪文書、偉大な死を迎えるということ

レオナルドダヴィンチがもしも、紙を有り余るほど持っていたら、もう少しは彼について個人的なことを知れたのだろうか。

人の死の本質は忘却である、というような、実存主義の隆盛爾来、使い古されてきた言い回しを繰り返す必要はない。

死は成長の一形態であり、恐れることはない。もはや、死への恐怖に突き動かされて実存することはなく、人は決して死のみに生きるにあらず。

生は常に自分ごとであるが、死は常に他人ごとだ。人は生のみをもって人生を全うするのであって、その人自身の人生に死が現前するのではない。

 

慰めをただただ受け入れるよりも、小さな希望を持つことの方が死の恐怖を死なせるにふさわしく、意志を最も活かす道である。

死を成長の、すなわち生の一形態だと話を置き換えたところで、何かの解決になるであろうか。ならない。

死も生も、ある程度妥当性を持つもののあくまでも恣意的な命名によるものでしかない。それは、白人・黒人といったカテゴリー用語でしかない。

その内実に妥当性が見られるとしても、それ自体についての全てを語るのではない。

我々は、一人の人生の生と死について語るとき、どう足掻いてもその人生の他者にしかなれない。死を語りに入れる時点で、その人生に絶対的に他者であり続ける。しかし、我々はまた一人の人間に生も死も付与する。そして、その他人事である死に突き動かされて、実存へのエネルギーにしようとすることを正当化しようとする。

そんなものは、敢えて選ばれた生ではない。生かされた生だ。

 

ラクダ、ライオン、子供。

大いなる正午を迎えた。

ラクダであった時期は2年前に終わった。これで全てを背負い込み、長く続くであろう不安と苦労ばかりを心配し、死を背後に感じつつ実存を望んで彷徨い歩く時代は終わった。今はライオンか。あるいは、すでに子供への変容を感じてもいる。

ライオンはまだまだ「我欲す」とがなりたてている。そもそも、生きることとはなんであったか。

 

死こそ成長の究極形態である。Carpe diem、常に今こそ何かを始める機運の満ちる時。

ツァラトゥストラと出会って、哲学を始めた人生だった。

そもそも生存すら脅かされていた私の人生に必要だったのが、実存主義だったのだろう。

私が私として生きるために。その私って?

 

初めに言葉があった、神は言葉と共にいた。

初めに存在があった、存在は実存の不安と共にいた。

 

バックワード

 

 放送授業を見ながらご飯を済ませる。試験用の本を用意するため、ライプニッツによる面積変換定理について熱弁する先生をさっと闇で覆う。空の鞄と貸出カードを持って外に出る。13:00までに帰って来れるか不安になりながら、自転車に跨った。

 

往路

 

1

 たとえば、ぽつねんとある遅桜、人のいない道、外装の古びたアパートに干されているデニムの作業着と青いTシャツ。こんなふうに、エモそうなイメージを羅列し、情景に浸ってもらおうなんてしゃらくさい文のことなんかを考えていた。あえて曖昧にすれば、どんなものだって「本当は良いものなんだ」って言える。本当は人のいない道のど真ん中で、アスファルトぶち破って遅桜がドカンと咲いてる面白い光景かもしれないし、古びたアパートだって、本当はめちゃめちゃ高級な家なんだけど、外装のレンガが少し欠けてるだけで“古びた”と言ってるのかもしれない。もしかしたら、デニムの作業着だって肉体労働者のじゃなくて、家主が5,000年に1度やる程度のDIYに酔ってカッコつけて干してるのかもしれない。だって、私だったらデニムの作業着なんて絶対に嫌だ。通気性が良い化繊にするもの。
 実際に見たものから、これだけのことを考えた。そう、実際に、ぽつねんとある遅桜は公園の真ん中にあったし、道には人がいなかった(その代わり、道の向こうには馬鹿でかいイオンモールがある)。古びたアパートのデニム作業着だってあった。だけど、どれもまばらに、ただ視界に入っただけだった。もしかして、曖昧なエモ文章も、そういうことなのかもしれない。感情をいくら言い尽くしたって取りこぼすんだから、エモなのも曖昧でいいにきまってるじゃないか。
 こんな想像よりもっと面白かった現実の光景は、排水機場の側の桜に立っていた、桜色のシャツをきたおばあちゃん。もし、あれに出くわしてすぐ「あれは桜の精霊だよ」と真剣に説得されれば、筋金入りの無神論者である私でもきっと信じてしまうだろう。

2 
 大きな河を渡るためには、橋に登らなくてはならない。目的地は図書館、中学生の頃から登り慣れた急な階段を自転車と共にのぼって、改めて春を実感する。息が上がってマスクを取ると、混濁した川水から立ち上る匂い。乾燥もずいぶんマシになって、ただでさえ匂いに敏感な私がさらに敏感になっている。
 江戸川を見下ろしながら橋を渡っていると、私が登ってきたのとは反対側の岸で工事が行われているのが見えた。ススキが一直線に刈り取られ、岸から川まで、まるでエジプトから脱出した誰かさんが通ったかのようになっている。じゃあ、私は入エジプト記でも書くか。

3

 橋を渡り切って、大きな下り坂を下る。かつてはロードバイクでさらに漕いでスピードをつけて降りるのが大好きだったこの坂を、軽快自転車で下ったところで何も面白くない。
 外環工事で様変わりした、センスがなくてダサい碌でもなく風情のない交差点を越えて、よく親しんだボロボロの階段を降りる。新旧キメラのこの街で、自分もまた、過去と今の自分からなる新旧キメラであることを反省した。
 (本当は、ここにはさらに下世話な話を書きたかったんだけど、諦めた。下世話すぎる。)

 図書館についた、少なくとも、昔住んでた家よりはずっと安心する。

 

復路

 

4

 ああ、重い。昔から、自ら選んで背負っては責められ、一杯一杯になった。本当は背負い投げが得意なんだけど、投げるのが可哀想でずっと背負って立ちっぱなしだった。考えることをそのまま書いて、うまく繋げようだなんて無茶だったかな。まぁ、投げてもちゃんと襟を引くしな。それが道だし。
 そして道を自転車で進み出す。そういえば、帽子を取るときに思った。亡くなった祖母と私の、貴重なツーショット。祖母は向こうを向いていて、私は祖母につまづいて転んだ形にひっくり返って後頭部と背面しか見えない。そこに映る私のつむじは奇妙な縦長で、大きいものだった。いま、私が禿げてきてるかも悩んでいるつむじの奇妙さは、子供の頃から変わっていなかった。それに私は安心した。奇妙なのは、今にはじまったことじゃなかったのだ。そういえば、私の頭の中や性格がなんだか奇妙なのも、昔からじゃなかったか。

5
 心臓専門病院に、帯状疱疹の薬をくれと車の中から叫ぶ患者を尻目に、そういえばこの辺はNくんの家があったなと脳内に戻る。犬が好きで、成績が悪くて、素行も悪い。でも、なぜかすごく優しくて、口が臭い彼のことを想った。県内でも有数の底辺高校を中退して、某運送会社に勤めていたものの、それをやめたきり消息がわからない。そんな彼は車になりたがっていた。今頃、元気に走っているだろうか。

6

 復路はとにかくつまらないようで、実は面白い。同じ道も、反対からみるとまた別の道として見える。山ならそれは特に顕著だ。時間の流れ(があるとするなら)常に前だけど、私は往復をしている。でも、地理的に往復でも、時間は常に進行している。言うなれば、常に往路だ。そうか、そういうことだったのか。
7

 亡くなった祖母ではなく叔母のことを思い出した。ネズミだらけの家に住んでいた頃、叔母が勉強机を買ってくれた。勉強は嫌いではないが、学校の勉強が嫌いだったため、叔母の勉強机の上にはドジョウとか、フリーメイソンの本とか、宇宙物理の本が積み上がっていた。ときに、ボボボーボ・ボーボボケロロ軍曹
 勉強机は私が小4になると、PCデスクになった。今振り返れば、PCデスクを別に買っておけば、今よりお勉強もできていたかもしれない。狭い部屋の勉強机にデスクトップPCが置かれると、それはもう勉強のできるスペースを失うほかない。でも、早いうちからPCに触れ、家の中では誰も知らないインターネットの物理的な回線の繋ぎ方から何から、全部自分でやったことは信じられないほどの利益を生んだ。
 そんな勉強机に叔母が再会したのは、骨になって綺麗な箱に入ってからだった。これを書いている今、私は“今のデスク”に向かっている。でも、私がどんなデスクに向かっていたって、この習慣の原点はおばちゃんの勉強机なんだ。ありがとう。
8

 信じられないほど暑い。橋に差し掛かると、思わずかわいいドラえもんのマークがついた上着を脱いで、白シャツにマスク、黒いズボンという高校生めいた姿になった。かごに、無料知識屋さんから借りてきた本がどっさり詰まったカバン。
 じっとりした肌着を肌から時々剥がしながら、風を感じるために全速力で漕いだ。思ったよりスピードが出る。並走する車が、ちょうど私が徒歩の時に追い越す自転車くらいだ。私は歩くのが早いから、徒歩は平均して6〜8km/hで、自転車はその倍くらいに感じているから、だいたい12km/h。つまり、私と自転車の速度は1:2だ。そんで、この軽快自転車では大体20〜25km/hくらいは出る(なんでわかるかって?私はスピードメータが大好きだからだ!子供の頃、スピードメータと自分の漕ぐ速度の感覚を一致させることに精力を尽くした。そして何度も事故を起こした)。だったら、車は大体40~50km/hくらいか。妥当だ!

9

 最高の気分で橋を降りる。無自覚に出エジプトを済ませた私は、人がいないのを確認してマスクをずらす。
 むせかえるような土と草の匂い、紛れもなく、それは今と昔とで変わらない江戸川だ。思わず、好きな曲がどこからともなく聞こえてくる気がした。

 “In terra pax  地球に愛を 僕らに夢を さあ野辺に出よう ならんで腹這いになり もえでた ばかりの 草にむせて

  大地に胸をあてるのだ とくとくと 見えない 地の底から響く 不思議なリズム

 地球の鼓動だ この大地のリズムに合わせ 人は生きる 鳥も木も草も“

        ー『IN TERRA PAX - 地に平和を』(作曲:荻窪和明 作詞:鶴見正夫 出版:音楽之友社、1990)

 生への執着はなかったはずだが、ニーチェに心突き動かされ、IN TERRA PAXを歌ったこの時代の私は、確かに力への意思、超人への意思に溢れていた。今はよりクレバーな形で、それに近づこうとしている。
 川から離れれば離れるほど、悲しい気持ちになっていった。こんなに美しい歌を歌っておきながら、同窓生はまるで地球のことなど考えず、平気でトゥンべリ批判どころか環境問題を的外れに論難しようとしたりする。あるいは、朝鮮人を差別するし、女性を蔑視する。

 


10
 家について、全てどうでも良くなった。疲れた。思いついたことを書く気力もない。そんな気がしていた。今日からまた忙しくなるな。明日は翻訳を進めておかないと、後、次のレポートも作成していかないと。あ、会社からメール来てないかな。来てないな。
 せっかくだから、最悪飽きてもいいし、書けるとこまで書いてみちゃおうか。

あきらくん

何の気なしに、ココアにマシュマロを浮かべて煮込もうと思い立つ。

冷蔵庫からパックに残り少ない牛乳を出して、鍋に注いで火をかける。

しばらく待つと煮えてきた。用意していた森永のミルクココアの粉を鍋の中に撒く。

白い牛乳もいよいよ小豆色になったので、マシュマロを4つ、贅沢に浮かべた。

「ココアにでかいマシュマロ入れてみた」

高校を卒業して数年で事故死した友人が、亡くなるずっと前にしていたSNSのこの投稿も、コロリと頭に浮かんだ。

あきらくんと私が通っていたのは工業高校で、偏差値に囚われない生き方をする人たちばかり。

私はその中でも珍しく勉強が好きでよく出来た。おかげで、何の価値もない一番の成績を誇っていた。無意味な首席である。

そんな、良くも悪くも目立つ首席に勉強を教えてもらおうと群がる輩は多い。

なぜなら、成績が良ければより良い就職ができると、彼らは信じているから。

本当は、どのように就職しても、工業高校卒として、あらゆる工場の管理者や先輩の中にある、不勉強な人間像、愛嬌のある無能な人間像、フレッシュで活き活きした若者像、のいずれかの像に当てはまる努力をしなくてはならない。地元にいる友達の多くが大学生として過ごす傍、大学という素晴らしい場所を知らないまま、ただ工場・会社の大卒様、たびたび無能な大卒様に媚び諂わなくてはならない。転職を2回以上しようものなら、どんどん道が狭まるどころか、そのうち実存する人ですらなくなる。

あきらくんは、そんな彼らの中でも唯一、テスト前以外での“特別講義”を要請してきた。

教えるための実例を考えたり、式を導出するための筋道を考えたりすることを通じて自身の知識が磨かれることから、いつも快く引き受けた。

そんな関係が始まってから1年、残念ながら、彼は先にあげた何の像にも当てはまらない人間だったからか、満足いく就職ができなかった。

周りの人間は、やれ造船所がどうだとか、プラントがどうだとか、ガチャガチャの商品がどうだとか、警察学校がどうだとか。

その頃は私も、受かっていた大学への入学を経済的な理由で辞退し、学校に行かなくなっていた。首席が欠席、最前列が空席である。

卒業後、あきらくんは就職した会社をすぐに辞めてしまい、アルバイト先の飲食店に社員として転職した。

私は、学校の斡旋を受けずに自分で仕事を探し、職を転々としながら細々と進学の準備をしていた。

そしてその日は来た、これは今から4年前のこと。

あきらくんが事故にあったことは、開設当時から険悪なクラスラインで知った。

あきらくんから金をよく借りていたやつが報せた訃報、クラスメイトが焼香や香典のことを相談し始める。

最初は私も線香をあげに行くつもりだったが、みんなで決めた香典が少ないと曰う奴のせいで、その気がなくなった。

だから彼の墓も遺影も位牌も見ていない。

マグカップの中も、いつしか空っぽだった。

天才

 忘れぬうちにまとめるメモ書きで,極めて個人的なものである.

 

 自身の持つ”天才コンプレックス”が私の心の師Leonard da Vinciから来ていることは間違いない.その時に持っていた力への意志は,全知全能,手の器用さ,頭の良さなど,どのようなことについても完璧を目指し,さらにその中でも興味のあることについて秀で,他者つまり自分以外の全ての人間に貢献するような仕事を成し遂げることだった.

 それが最も強かった高校卒業前,物理,論理学,哲学,そして専攻だった機械に明け暮れた日々に,大きな挫折を味わい,高校卒業後は自身を不幸な,受難の天才であることを信じていた.

 実際,若かりし頃のメモを読めば現代哲学が対峙している問題に自らの足でたどり着き,それについてどのようなアプローチが可能なのかについての考察がなされていたり,後知恵としてその問いはナンセンスだと分かるものの,それがナンセンスとは気づいていなかった当時の私による言語の限界についてウルマン『意味論』やソシュールに基づいたまぁまぁ精緻な考察がなされていたりした.

 当時の私は確かに天才的に明敏で,炯眼の士だった.一日のほとんどを勉強と思索に費やし,その脳はさながら問題や発見の汲めども尽きぬ泉である.

 ところが,学問を修め始めてから体系を吸収するにしたがって,当然のことながら一般的に考え得ることの体系,つまり,論理的飛躍の許されない体系も身に染み込ませてしまったことから,”情報の少ない状態ゆえに起こさざるを得ないアブダクション”が抑えられてしまったのである.これをもってして,私は自身は天才ではなくなったのではないかと心配し始めた.

 ここまでで,私のイメージする天才性の本質はアブダクションであり,つまり問題の”診断”と”発見”のプロセスであることが分かる.

 言い忘れていたが,Leonardo da Vinciの"能力"として解釈していた「万物への好奇心」は内面化できたから,私の課題は”興味のあることについて秀で,他者つまり自分以外の全ての人間に貢献するような仕事を成し遂げること”にシフトしている.

 過去の自分を振り返り,その明敏な問題提起が悔しく思えるのは,長い事学問を修めんとして勉学に熱中するあまり,自身が持っていたはずのアブダクションの能力がさび付いてしまうことへの惧れから来ているだろう.Leonardo da Vinciのいうように,頭と水は動かさないでおくと腐る.

 研究とは,言うまでもなく考察・問題設定,知識の研鑽の両輪であるはずである.*1どちらかだけでは何も進まない.どちらかが優位になる時期はあれど,また他方をまったく止めてはならない.

 過去を懐かしく思って,いくら問題設定が明敏であろうと,当時の私は知識の研鑽が足らなかったということを踏まえれば,知識を研鑽すればするほど,適切な問題設定がそもそも困難であるのではないかと考えることができ,つまり”天才性”が衰えたわけではないと解釈することも可能なのである.

 

 最後に,天才に嫉妬しなくなった現状.自身が天才だと確信しているのか*2,競争心がなくなっているのか.課題である.

*1:そして,哲学者を目指していた当時の私は,このような考察・問題設定のみで物事をやろうとしていた.

*2:そんなことはないはずだ